セツ・モードセミナーの閉校によせて

セツ・モードセミナーの閉校によせて


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セツ・モードセミナーに入るまで

今ではもう記憶も曖昧なのですけれど、私がセツ・モードセミナーの門を叩いたのは1998年のことだったと思います。
当時、私はある企業に勤めておりましたが、Macを使ってイラストを描くことを趣味としており、インターネットの世界が広がったことで、少しずつ自分の日常が変わり始めていました。

「自分にも何かもっと今と違うことができるかもしれない」

と漠然と感じていた希望と不安の時代でした。

ただのOLだった私が、独学でHTMLを書いて自分のイラストをネットに公開した1週間後、九州の新聞社からメールが来ました。「コラムの連載のイラストを描いてほしい」との依頼です。まだ、インターネットにホームページを公開しているイラストレーターが少なかったので、目にとまりやすかったのだと思います。

そうこうするうちに、

「イラストレーターか、デザイナーとして仕事をしてみたい」

と思うようになり、セツ・モードセミナーの入学願書を出しました。
石川三千花やメグ・ホソキなど「有名なイラストレーターを多数輩出している」ということがセツに通うことを決めた一番の理由でした。

セツでは入学試験などはなく、抽選で入学が決まります。私が入学する数年前は、先着順だったそうですが、申し込み前日から並ぶほどの人気ぶりで、その後先着順をやめて抽選になったそうです。

セツ先生との出会い

最初の授業の日、私は長澤節という人物がどういう人なのか、男性なのか女性なのかも全く知りませんでした。黒木先生・星先生から生徒に向けての一通りの説明が終わった後、いよいよセツ先生が前に出て、脚立に浅く腰掛け、生徒全員の方に視線を向けてこう言いました。

「ようこそ、セツ・モードセミナーへ」

その一言だけで、部屋中の空気がピンと張りつめた、あの時の第一印象は忘れられません。セツ先生は、身体からまさにオーラのようなエネルギーを発している人でした。

ピンクのシャツをゆったり着て、細いスパッツに膝近くまであるブーツ。キャップを被って色つきの眼鏡をかけているやせっぽちの人。男性とも女性とも言いがたい、風貌。おそらくこの時、すでにセツ先生は80歳を過ぎていたかと思われますが、こんな人を私は見た事がありませんでした。この服装は不思議と似合っていて、後ほどこれが「セツ・スタイル」なのだなと理解しました。

一歩入ると、外の喧噪とは無縁の別世界

セツ・モードセミナーの校舎は、およそ日本建築とはかけ離れた不思議な建物です。あえていうならフランス風というのでしょうか。蔦の絡まる真っ白な外観。階段を登ってドアを開けると、吹き抜けの広い部屋が広がります。
手前には事務所の受付。授業のスケジュールが書かれた黒板。
その先にはソファが並べられており、白い額縁に入った生徒の作品が飾られています。校舎というより、居心地のいいアトリエという雰囲気でした。

テラスに出ると、様々な植物が育てられていました。丹誠込めた花壇、というよりは無造作な自然の花たち。ベンチは手作りで、そこにあるなにもかもが素敵な空間だったことを鮮明に思い出します。

セツでは、90年代後半に普及しはじめていた携帯電話は、たしか使用禁止だったと記憶しています。それだけではなく、ペットボトルやお弁当、お菓子なども持ち込み禁止だったのは、おそらく「外から持ち込む雑多なパッケージデザインを極力排除するため」だと思います。

室内に余計なものがないということは、真摯に絵と向き合うためには大切なことです。校舎に入ると、いつも気持ちがスッと落ち着き、外での喧噪を忘れてデッサンや水彩の作業に集中することができるのでした。

美味しかった一杯の珈琲

ペットボトルや缶ジュースなどの持ち込みはできませんでしたが、授業の休憩時間には、黒木先生や星先生らが豆から挽いて淹れてくれる、最高に美味しい珈琲を飲むことができました。たしか一杯50円だったでしょうか。部屋中に広がる珈琲の香りを楽しみながら、友人ととりとめのないおしゃべりをしていました。

絵の描き方を教えない美術学校

セツ・モードセミナーは「絵の描き方そのものは教えない学校」です。美術の歴史も、色彩学も教えませんし、卒業後は就職先の斡旋も、全くありません。生徒達は、ただひたすら被写体と向き合い、デッサンを繰り返し、他人の絵を見ながらディスカッションし、それぞれの個性を認め合った上で、いいと感じたことを自分の絵に生かしていくのです。

当時の私にとっては、前職を辞め、Webの制作会社でアルバイトをしながら通っていましたので、外部の喧噪から逃れて、静かに被写体と向き合う時間は本当に大切なものでした。

セツ先生のデッサン

ポーズをとったモデルさんを生徒達がぐるっと取り囲み、人物デッサンをしているときに、階段を登ってくる足音がしたかと思うと、節先生が教室に顔を出すことがたびたびありました。
先生のデッサンはものすごく速いです。5分くらいでモデルの全身を画用紙いっぱいにサラサラと描いたかと思うと、黒板に張りだします。

その絵の躍動感たるや!

決して写真のようにモデルそのものの正確な線を表現しているわけではないのですが、適当にシャッシャッと描いているように見える一本一本の線が、それぞれ意味を持ち、全体の微妙なバランスを保ち、躍動感を生み出しているのです。一目で見て、「長澤節の描いた絵だ」とわかる素晴らしいデッサンでした。

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群像デッサンの様子。生徒が交代で複数人モデルとなる。

大原の夏合宿

セツ・モードセミナーでは毎年夏に、千葉の大原という海辺の町で合宿を行ないます。これもまた、「何かを教える」ものではなく、海辺の美しい景色を水彩でひたすら描く、という合宿です。
私は1998年の夏に参加し、漁港やのどかな田園風景を水彩で描き、友人とのひとときを楽しみました。

Webデザイナーとして転職、セツ先生の死

翌年の1999年、私はWebデザイナーとして制作会社に勤務することになり、非常に忙しい生活を送っていました。月曜日に出社したら土曜の昼まで帰れない、というような徹夜続き、泊まりがけの仕事が多い中、なかなかセツに通うことができなくなっていました。

そんな夏のある日、「セツ先生が亡くなった」という連絡を友人から受け、学校のある舟町のモスバーガーに数名で集まりました。
大原の夏合宿中、自転車に乗っていたセツ先生が転倒して骨折し、そのまま入院して亡くなったとのことです。
大好きな美しい大原の景色の中で、人生の幕引きとは。軽やかな先生の生き様が、亡くなりかたにも表れているような気がしました。

「先生にもう一度会いたかった」
「これからどうなるんだろう」
「学校はなくなっちゃうのかしら」

各々が不安をこぼしていましたが、結局セツ・モードセミナーはなくならず、引き続き生徒達は通い続けることができて、無事、私たちは美術科を卒業しました。卒業証書には、セツ先生のデッサンが全面に描かれたものをいただいた事が思い出のひとつです。

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現在の私

現在、私はフリーランスのWebデザイナーとしての活動も15年となります。
住まいは以前と同じように新宿区在住で、セツの校舎がある舟町を自転車で通ることもよくあります。子どもが生まれた2003年頃、どうしてもデッサンをやりたくなってセツを訪れたことがありました。
建物は以前と変わらずでしたが、事務所の人に「外部の人が単発で授業に参加することはできない」と断られてしまいました。
残念でしたが、その時は自宅で身の回りのものや、生まれたばかりの息子をひたすらデッサンしました。

セツに通っていた頃の事を思い返すと、単に懐かしい気持ちになるだけでなく、セツ先生から学んだことについて考えさせられます。

私はいま、美しいものを美しいと感じることができているだろうか?

日々の生活に追われて、自分の心とじっくり向き合うことができていないんじゃないか?

「いい線出てるよ。よーく見て!」

デッサンの時にセツ先生が仰っていた言葉を思い返しながら、自分の心に問いかけます。


shoko administrator

フリーランスのWeb制作者。WordPressのサイト構築、およびWebデザインとディレクション。専門学校HAL東京にてWEB学科の講師をしています。WordPressコミュニティに出没。趣味は合気道。